最高裁判所第三小法廷 平成5年(オ)2187号 判決 1997年7月15日
上告人
株式会社香進産業訴訟承継人
株式会社参波実業
右代表者代表取締役
神原幾之輔
右訴訟代理人弁護士
井上二郎
中島光孝
被上告人
小川工業株式会社
右代表者代表取締役
小川浩敏
右訴訟代理人弁護士
神田昭二
真田文人
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
1 上告人は、被上告人に対し、六九四万四四二〇円及びこれに対する平成三年三月五日から支払済みまで一日につき一〇〇〇分の一の割合による金員を支払え。
2 被上告人のその余の請求を棄却する。
二1 被上告人は、上告人に対し、一七四四万四三八三円及びこれに対する平成六年三月五日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
2 上告人のその余の民訴法一九八条二項の裁判を求める申立てを棄却する。
三 訴訟の総費用及び上告人の民訴法一九八条二項の裁判を求める申立てに関して生じた費用は、これを一〇分し、その八を被上告人の負担とし、その余を上告人の負担とする。
理由
上告代理人井上二郎、同上原康夫、同中島光孝の上告理由中第一の二を除くその余の上告理由について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に基づき若しくは原判決を正解しないでこれを論難するものにすぎず、採用することができない。
同第一の二について
一 原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
1 被上告人は、上告人(本判決の理由においては、承継前上告人のことも、単に「上告人」という。)との間で、昭和五八年一〇月四日、ホテル玲香園新築工事を報酬九八〇〇万円、引渡期限を昭和五九年二月二八日として請け負う旨の契約を締結し、請負人がその責めに帰すべき事由により目的物の引渡しを遅滞したときは一日につき契約額の一〇〇〇分の一に相当する遅延損害金を支払い、注文者が報酬の支払を遅滞したときは一日につき支払遅滞額の一〇〇〇分の一に相当する遅延損害金を支払う旨約定した。
2 本件工事の進行中に二回にわたって追加工事が行われ、その報酬額は第一回追加工事については六四一万二九五〇円、第二回追加工事については一五二万三九七〇円である。
3 右1の引渡期限はその後延長されたが、被上告人は、右延長された引渡期限に三四日遅れて、昭和五九年四月一七日、右追加工事を含めた本件工事を完成させて建物を上告人に引き渡した。引渡しの遅延による右1の約定に基づく被上告人の上告人に対する損害賠償債務の額は、三三三万二〇〇〇円である。
4 上告人は、被上告人に対し、報酬のうち八〇〇〇万円を支払ったのみで、残金二五九三万六九二〇円の支払をしない。
5 本件工事の目的物である建物には、(1) 三号客室敷居の木材のねじれ、化粧土台のゆがみ及び化粧建具の調整不良等の瑕疵、(2) 二階の浴室のゴムシート防水工事及び一階の浴室の床下土間コンクリート打設工事未施行の瑕疵が存在し、その修補に要する費用は、右(1)の瑕疵につき五万一五〇〇円、右(2)の瑕疵につき一五六〇万九〇〇〇円である。
6 上告人は、昭和五九年一一月一日の第一審第一回口頭弁論期日において、右3の履行遅滞による損害賠償債権及び右5(1)の瑕疵修補に代わる損害賠償債権を自働債権として、被上告人の本訴請求債権とその対当額において相殺する旨の意思表示をし、平成三年三月四日の原審第六回口頭弁論期日において、右5(2)の瑕疵修補に代わる損害賠償債権を自働債権として、被上告人の本訴請求債権とその対当額において相殺する旨の意思表示をした。
二 被上告人の本訴請求は、上告人に対して既払分を除いた報酬残債権二五九三万六九二〇円及びこれに対する建物引渡しの日の翌日である昭和五九年四月一八日から支払済みまで約定の一日につき一〇〇〇分の一の割合による遅延損害金の支払を求めるものであるところ、原審は、次のとおり判示して、本訴請求を、上告人に対し報酬残債権六九四万四四二〇円及びこれに対する建物引渡しの日の翌日である昭和五九年四月一八日から支払済みまで約定の一日につき一〇〇〇分の一の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容し、その余の請求を棄却した。
1 上告人は、被上告人に対し、右一3及び5(1)、(2)の合計一八九九万二五〇〇円の損害賠償債権を有するから、被上告人の報酬債権は、右一6の相殺によりその対当額が消滅した。
2 相殺の意思表示は、双方の債務が互いに相殺をするに適する時点にさかのぼってその効力を生ずるところ、自働債権である上告人の被上告人に対する右一3の履行遅滞による損害賠償債権は、建物の引渡しがされた昭和五九年四月一七日までに期限の定めのない債権として発生し、その発生の時から弁済期にあると認められ、同じく自働債権である上告人の被上告人に対する瑕疵修補に代わる損害賠償債権も、右引渡しのされた昭和五九年四月一七日に期限の定めのない債権として発生し、その発生の時から弁済期にあると認められ、他方、受働債権である被上告人の上告人に対する報酬債権は、右引渡しのされた昭和五九年四月一七日に弁済期が到来したと認められるから、右相殺の意思表示は、相殺適状になった昭和五九年四月一七日にさかのぼってその効力を生じた。
3 相殺後の報酬残債務は、右相殺適状になった日の翌日から遅滞に陥る。
三 しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
請負人の報酬債権に対し注文者がこれと同時履行の関係にある目的物の瑕疵修補に代わる損害賠償債権を自働債権とする相殺の意思表示をした場合、注文者は、請負人に対する相殺後の報酬残債務について、相殺の意思表示をした日の翌日から履行遅滞による責任を負うものと解するのが相当である。
けだし、瑕疵修補に代わる損害賠償債権と報酬債権とは、民法六三四条二項により同時履行の関係に立つから、注文者は、請負人から瑕疵修補に代わる損害賠償債務の履行又はその提供を受けるまで、自己の報酬債務の全額について履行遅滞による責任を負わないと解されるところ(最高裁平成五年(オ)第一九二四号同九年二月一四日第三小法廷判決・民集五一巻二号登載予定)、注文者が瑕疵修補に代わる損害賠償債権を自働債権として請負人に対する報酬債務と相殺する旨の意思表示をしたことにより、注文者の損害賠償債権が相殺適状時にさかのぼって消滅したとしても、相殺の意思表示をするまで注文者がこれと同時履行の関係にある報酬債務の全額について履行遅滞による責任を負わなかったという効果に影響はないと解すべきだからである。もっとも、瑕疵の程度や各契約当事者の交渉態度等にかんがみ、右瑕疵の修補に代わる損害賠償債権をもって報酬債権全額との同時履行を主張することが信義則に反するとして否定されることもあり得ることは、前掲第三小法廷判決の説示するところである。
四 これを本件についてみるのに、上告人は、被上告人の報酬残債権請求に対して前記一3及び5の損害賠償債権を自働債権とする相殺の抗弁を主張するとともに、報酬残債務の全額が瑕疵修補に代わる損害賠償債権と同時履行の関係にあるから履行遅滞による責任を負わない旨を主張するものであるところ、右同時履行の主張が信義則に反すると認めるべき特段の事情のうかがわれない本件においては、上告人が平成三年三月四日に相殺の意思表示をするまでは上告人主張の右同時履行の関係があったものというべきであり、上告人は、右相殺後の報酬残債務について、右相殺の意思表示をした日の翌日である同月五日から履行遅滞による責任を負うものというべきである。右と異なる原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、前記事実関係の下においては、本訴請求は、右相殺後の報酬残債権六九四万四四二〇円及びこれに対する平成三年三月五日から支払済みまで約定の一日につき一〇〇〇分の一の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があり、その余は理由がないから、原判決を主文第一項のとおり変更すべきである。
上告人の民訴法一九八条二項の裁判を求める申立てについて
上告人が右申立ての理由として主張する事実関係は、被上告人の争わないところであり、原判決中上告人の敗訴部分のうち六九四万四四二〇円に対する昭和五九年四月一八日から平成三年三月四日まで一日につき一〇〇〇分の一の割合による金員の支払を命じた部分が破棄を免れないことは前記説示のとおりであるから、原判決に付された仮執行宣言が右限度で効力を失うことは論をまたない。したがって、右仮執行宣言に基づいて給付した六九四万四四二〇円に対する昭和五九年四月一八日から平成三年三月四日まで一日につき一〇〇〇分の一の割合による金員合計一七四四万四三八三円及びこれに対する平成六年三月五日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による金員の支払を求める上告人の申立ては、正当として認容すべきであり、その余の部分の申立ては、理由がないからこれを棄却すべきである。
よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、三八四条、一九八条二項、九六条、八九条、九二条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官千種秀夫 裁判官園部逸夫 裁判官大野正男 裁判官尾崎行信 裁判官山口繁)
上告代理人井上二郎、同上原康夫、同中島光孝の上告理由
第一 原判決には、法令の解釈または適用の誤り、審理不尽、理由不備の各違法がある。
一 原判決は、本件請負契約において、その契約内容は四会連合協定工事請負契約約款(以下「四会連合約款」という)による旨の約定が成立したとし、それゆえに上告人が工事代金の支払いを遅滞したときは、一日につき支払い遅滞額の一〇〇〇分の一に相当する遅延損害金(即ち年36.5パーセントの割合による遅延損害金)を支払う旨の約定が成立したと認めるべきである、としている。
しかし右原判決の判断には、次に述べるとおり、契約解釈の法理の適用を誤り、ひいては審理不尽、理由不備をもたらした違法がある。
1 原判決は右判断の理由として、次の事実を認定している。
① 上告人(一審被告)は本件工事の請負人を入札で決めることにした。そこで昭和五八年九月六日、工事説明会を開き、その説明会で上告人の担当者は集まった工事請負業者に対し、工事の設計図書を渡すとともに、四会連合約款によって本件請負契約を締結する、請負人の責めに帰する理由による遅延損害金は右四会連合約款に従わず、一日につき契約金額の一〇〇〇分の一とする旨の特約(以下「請負人延滞金特約」という)を説明し、その旨記載した書面も渡した。
② しかし、被上告人(一審原告)は右説明会に欠席した。だが、その後受け取った設計図書に基づき本件工事の入札に参加した。被上告人はその入札に当たり、前記説明会で説明された請負人延滞金特約によることを特に排除する意思を明示しなかった。
③ 前記入札において請負代金九八〇〇万円で入札した訴外佐藤工業が落札し、入札価格が一億円を超えていた被上告人は落札できなかった。
④ 右落札した佐藤工業と上告人は、代金の支払い方法で合意ができず、このため佐藤工業は本件工事を請け負うことを辞退した。
⑤ 上告人はその代表者と個人的な付き合いのあった被上告人の代表者に対し、本件工事を請け負ってほしい旨申し入れたところ、被上告人は請負代金九八〇〇万円で本件工事を請け負うことを承諾し、工事請負契約書を作成することなく、本件工事に着工した。その際前記説明会で説明された請負人延滞金特約を排除する旨の留保はなかった。
⑥ 昭和五八年一二月初めごろになって、右請負契約につき契約書を作成する必要が生じ、上告人、被上告人間で本件工事請負契約書が作成された。同契約書には発注者・請負人のいずれについても遅延損害金についての約定の記載はない。同契約書作成に当たり、上告人と被上告人間で、前記説明会での請負人延滞金特約によらない旨の合意があったわけでなく、また特約のない事項について本件請負契約が四会連合約款によらない旨合意したわけでもない。
⑦ 四会連合約款には、発注者が請負代金又は請負代金相当額の支払いを完了しないときは、請負人は遅滞日数一日につき支払い遅滞額の一〇〇〇分の一に相当する額の違約金を請求できる旨の記載がある。
2 しかし右認定事実から、四会連合約款をもって本件請負契約の内容とする旨の約定が成立したとの判断を導くことは、明らかに契約解釈の法理(法律行為解釈の法理)に反するばかりか、経験則にも反する。
(一) まず法律行為の解釈は、当事者が用いた言語、文字、その際の言動等の表示行為が有すべき意味を決定することであるから、それは事実の確定の問題ではなく、事実に対する法律的判断である。そして、法律行為の解釈は一定の基準ないし法則による判断であり、これを誤ることは法令違反にほかならない(我妻「民法総則」二五八頁以下)。そして右にいう一定の基準とは、当事者の目的、慣習、任意法規、条理であり、法則には経験則も含まれる(我妻前掲書二五〇頁以下、後藤勇「民事裁判における経験則」一一頁以下)。
(二) 原判決は、前記認定⑥の上告人と被上告人間に、遅延損害金につき説明会での請負人延滞金特約によらない旨の合意、特約のない事項につき四会連合約款によらない旨の合意がなかったことをもって、請負人延滞金特約によるとの合意、四会連合約款によるとの合意(約定)があったとしている。しかし、「よらない旨の合意がなかった」ことが「よる旨の合意があった」ことを裏付ける間接事実となりうるには、それ以前に「よる旨の合意があった」ことが明確になっていなければならない。
しかし、前記①ないし⑦の認定事実の全部またはそのいずれからも「よる旨の合意があった」との判断を導くことは、前記法律解釈の基準や法則のいずれに基づいても、およそ不可能なことである。
(1) まず、事実の問題として、原審の認定した前記①ないし⑦の事実によれば、被上告人は説明会には出席しておらず、従って契約内容についての説明は受けていない。被上告人は入札には参加したが、落札できず、他社が落札した。仮に入札が契約の申込み、落札が申込みに対する承諾とみられるとしても(民事法学辞典・上巻三七五頁)、落札したのは他社であったから、そこで上告人、被上告人間にいかなる合意も成立していないことは明らかである。
(2) 次に、落札した他社が辞退したが、そこで被上告人が右辞退者にかわって落札者となったわけではない。もし被上告人が落札者となったのなら、その落札価格は被上告人の入札価格であった一億円を超える価格で契約がなされている筈である。以後本件工事につき入札方式による契約は行なわれないことになり、いわば随意契約による方法に切り替えられることになったものにほかならない。従って、入札募集にあたって説明された契約内容は、もはや何者をも拘束するものではなくなったものとみなければならない。
(3) そこで上告人の代表者は、かねて個人的なつき合いのあった被上告人の代表者に、新たに本件工事につき代金九八〇〇万円で請け負うよう申し込み、被上告人はこれを承諾したので、ここで上告人、被上告人間に本件工事につき、口頭による請負契約が成立した。この契約では遅延損害金についてはいかなる約定もなされていない。この契約は昭和五八年一二月初めころになって書面化されたが(甲三)、当然のことながら遅延損害金についての記載は何らなされなかった。
(4) このように、原判決認定の事実によっても、上告人、被上告人間の本件請負契約中に前記の如き特約、約款による旨の合意があったと解釈すべき何らの合理的理由も、また右合意の存在を肯定すべき特段の事情も存在しないのである。
工事請負契約においては必ず四会連合約款によるとの慣習が存在するわけではない。むしろ四会連合約款はいわゆる大手ゼネコンによる請負契約にはよく用いられているが、本件のような中小規模の建設業者による場合は四会連合約款が多用されているわけではないことは公知の事実と言ってよいであろう。まして、代表者同士が個人的な付き合いがあり、そのため契約書も作らず工事に着工したという本件の場合などにあっては、契約両当事者において、代金額、工事仕様、完工時期等の基本的事項が認識されていただけであって、極めて詳細な事項を網羅した四会連合約款によるなどという認識までは持っていなかったとみるのが自然である。
このことは、被上告人自身においても、原審の途中までは、本件契約が四会連合約款による旨の合意の存在を否認していた事実に照らしても明らかである(原審における被上告人の訴え変更申立書参照)。被上告人自身が四会連合約款による旨の合意の存在を否定し、上告人もその合意の存在を主張さえしていなかったものを、一審判決が突如として右合意が存在していた旨認定したために、被上告人はこれを奇貨として、かつ右認定のみを根拠にして、右合意の存在を主張しはじめたにすぎないものである。
入札募集のために説明された契約内容が、落札者が辞退して結局落札者がいなくなり入札が取り止めになった後に、まったく新たになされた上告人、被上告人間の本件請負契約の内容に合意(約定)として何ゆえ入り込んだというのか、その根拠、理由は原判決の前記認定事実からも全く見出すことはできない。まして、右のとおり当事者である被上告人自身も右合意を否定していたのであるからなおさらである。
3 しかるに右「よる旨の合意」の存在を「……によらない旨の合意がなかった」ことのみを根拠に肯定した原判決の判断は、あまりにも不合理であって、それは条理に反し、契約解釈の法理と経験則にも反するのであって、ひいてそれは理由不備でもあり、その違法は明らかである。
二 原判決には民法六三四条二項、同法五三三条の違反があり、この違反は判決に影響を及ぼすこと明らかである。
1 原判決は、上告人の相殺の抗弁を一部認容し、相殺の遡及効に言及したうえ、受働債権たる被上告人の上告人に対する請負代金債権のうち相殺により残った債権は、相殺適状になった昭和五九年四月一七日(本件建物の引渡し日)の翌日から遅滞が生じ、右残債権に対し同日から四会連合約款の一日につき一〇〇〇分の一の割合による遅延損害金が発生するとしている。
しかし、右原判決の認定は、次に述べるとおり、民法六三四条二項、同法五三三条に違反するものである。
2 被上告人の上告人に対する本訴請負残代金債権と相殺の抗弁にかかる上告人の被上告人に対する損害賠償債権は、民法六三四条二項の定めにより同時履行の関係にある。一般に、抗弁権の付着した債権を自働債権とする相殺は債務の性質上相殺が許されない場合に該るとされているが、右両債権の場合には、その実質関係に着目して清算的調整のため相殺が許されるとしても、相殺後の残額債務について相殺適状時に遡って遅滞が生ずると解することは、同時履行の抗弁権の制度趣旨に反するものである。
すなわち、民法六三四条二項が前記両債権が同時履行の関係にあることを定めた趣旨は公平の原則によるものであり、この場合、同時履行の関係にあるのは両債権の対当額についてだけではなく、両債権の額の大小にかかわらず、両債権は互いにその金額の全部につき同時履行の関係にあると解される。民法五三三条は、双務契約上対立する両債務の一方が物の引渡し債務のように必ずしも金銭的評価が容易でない場合とか金銭的評価が不可能な場合にも適用されるものであるから、そこでは「対当額」かどうかは問題にならない。これを民法六三四条二項の場合でみると、例えば一〇〇〇万円の請負残代金債権に対して、八〇〇万円の瑕疵補修と共に又は瑕疵補修に代わる損害賠償債権がある場合、八〇〇万円についてのみ同時履行の関係に立つのではなく、注文者は八〇〇万円全額が支払われない限り、一〇〇〇万円全額の支払を拒絶できることになる。また、このように解しないと、補修と共に又は補修に代わる損害賠償債権の額の算定は、一般に必ずしも容易ではないから、同時履行関係が文字どおり対当額だけに限られるとなれば、注文者は損害賠償債権額を専門家の鑑定などによって常に厳格に把握しておかなければ事実上同時履行の抗弁権を行使しえなくなるという不合理が生じることになる(もっとも損害賠償債権が請負代金債権に比して著しく少額であることが明らかな場合にまで全額につき同時履行の抗弁権を行使するのは、ときには権利濫用と目されることもあろうが、それは別問題である)。
従って、民法六三四条二項にいう対立する両債権の一方の額が他方のそれに比して著しく少額であることが明らかであって、両者に同時履行の関係を認めることがかえって公平の原則に反するような特段の事情がない限り、両債権は互いにその金額の全額について同時履行の関係に立つものと解するのが相当である。
3 これを本件についてみると、被上告人の請負残代金額は二五九三万六九二〇円、上告人の抗弁にかかる損害賠償債権額が二五一〇万六三一六円(原判決五丁表から六丁表)、原判決の認定額が前者につき右と同額、後者につき一八九九万二五〇〇円であるから(もっとも右各認定は後述のとおり一部誤りであり、前者が減額、後者が増額されるべきものであるが)、本件においては前記特段の事情は存在せず、従って、上告人は対当額のみならず被上告人主張の請負残代金額全額につき同時履行の関係を主張できる地位にあり、その結果相殺後の残額債権についても履行遅滞は生じないものである。
4 右解釈は、民法六三四条二項の同時履行の規定と相殺の効果とを切り離して考察した結果であるが、民法六三四条二項は、相殺の遡及効を定めた民法五〇六条二項の特則とみられるから、右のように切り離して考察することは当然の解釈というべきである。
なおこの点において、本訴一審判決が相殺を認めながら、請負残代金債務につき履行遅滞を認めなかったのは、右のような考察の結果によるものとみられ、まことに正鵠を射たものと言うべきである。
三 原判決には、審理不尽、理由不備の違法がある。
1 原判決は、本訴請求にかかる追加工事代金合計金七九三万六九二〇円につき、これを全額認定しているが、その額が客観的に相当であるかどうかについては何ら審理されていない。右のうち第二回追加工事分についてはその額につき概ね争いがないが、第一回追加工事分六四一万二九五〇円については争いがあるにもかかわらず、何らの根拠らしい根拠も示されていない。
2 原判決が認定した事実によれば、本件工事の進行中に追加工事の発注がなされ、追加工事請負代金については具体的な協議がなく、工事完成後に上告人と被上告人間で話し合う予定で追加工事が行われた。そして本件工事完成後両者間で協議がなされ、その際被上告人は第一回追加工事につき六四一万二九五〇円、第二回追加工事につき一五二万三九七〇円の各見積書を提出した。上告人は右第二回追加工事分については、その金額に異議はなかったが、第一回追加工事分については異議を述べ減額を求めたので協議は不成立に終わった、というのである。
そして原判決は、右のように「代金額について協議がまとまらなかった場合には、請負人は、実施した工事について客観的に相当な請負金額の請求ができる趣旨である、と解するのが相当である。」と判示しているところ、右判示自体は正当であるが、第一回追加工事分金六四一万二九五〇円が「客観的に相当な金額」かどうかについては全く審理されないまま右金額がそのまま認定されている。
原判決が右認定の理由としているのは、右「見積書の金額が妥当性を欠くとの事情は認められない」というにすぎない。そして、上告人が同見積書の金額の妥当性を否認し減額を求めたものであるところ、原判決は右減額を求める上告人の主張に合理的根拠がないから、見積書の金額が妥当であると認める、というのである。
いうまでもなく見積書というのは、請負人側の希望金額であり、いわば主張または提案にすぎないものであって、それ自体で妥当だとみるべき根拠はない。一般に契約金額は、見積書をいわばたたき台にして双方が意見を出し合って決まるものであり、見積額をそのまま契約額とする例はむしろ少ない。
それに見積書の金額が「客観的に相当な金額」であることの立証責任は、いうまでもなく請負人が負っているのであるから、見積書の金額が妥当であることを請負人が積極的に立証してはじめて、妥当な負債額と認定しうるのであって、注文者側の反論、否認に合理的根拠がないからと言って見積書の金額を妥当だと認定するのは、主張をもって主張を立証するのたぐいであって、その審理不尽、理由不備は明らかというべきである。
四 原判決には、請負人の担保責任につき、民法六三四条、同法六三六条但書の解釈、適用を誤った違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
1 原判決は、上告人の抗弁2[工事瑕疵による損害賠償債権(その一)]について、次のとおり判示している。
「原審鑑定の結果によれば、本件工事には別紙二のとおりのいわゆる瑕疵があること、右瑕疵は、建物部分(木造部分)の瑕疵とそれ以外の部分の瑕疵であり(後者の瑕疵は地盤沈下を原因とする)、建物部分の瑕疵は、地盤沈下を原因とするもの(○をつけたもの)、他の原因によるもの(△をつけたもの)、いずれとも不明であるもの(×をつけたもの)に区分できること、右建物部分の瑕疵の補修工事費用は九三万円を要することが認められる。
ところで、右地盤沈下の原因については、以下のとおりと認められる(原審証人原信の証言、原審における一審原告代表者及び一審被告代表者の各尋問の結果、原審鑑定の結果)。
(一) 本件工事が行われた土地は、従前のホテルの敷地と買い取った隣地の敷地とからなり、新たな擁壁を築造し、盛土工事を行った。従前のホテルの敷地と新たにホテルの敷地となった地盤との間で、不同沈下が生じることは、事前に予測された。
(二) 地盤の不同沈下を避けるためには、荷重を加えて一年位経過した後に建物を建築するか、建物の基礎を擁壁の下端まで下げるしかない。盛土工事での突き固めを十分にしても、地盤沈下が生じることは避けられない。
(三) 一審原告は、本件工事中、地盤の沈下が予想されたので、一審被告に対し、建物の基礎を深くする等告げたが、一審被告は、工事の関係から、設計図どおりの工事を指図した。
右認定の事実によれば、仮に一審原告の実施した盛土工事の突き固めに不十分な点があったとしても、地盤の不同沈下は避けられない(一審原告は、一審被告に不同沈下が避けられないことを告げている)から、地盤沈下を原因とする本件工事の瑕疵については、一審原告が瑕疵担保責任を負うことはない、と解される。
とすれば、一審原告は、前記1で認定した別紙二の瑕疵のうち、△印をつけた瑕疵についてのみ担保責任を負うことになる(地盤沈下を原因とするか、それ以外の原因であるか不明の瑕疵(×印の瑕疵)についても、一審原告の責任を問うことはできない)。」
(右判示の一審原告は被上告人を、一審被告は上告人を、原審は第一審を、それぞれ指す)
2 しかしながら、原判決の右判断には、民法六三四条に定める請負人の担保責任が無過失責任であることを看過した違法があり、また理由不備でもある。
(一) 民法六三四条ないし六四〇条が定める請負人の担保責任は無過失責任であり、その責任にもとづく損害賠償の範囲は信頼利益にとどまらず履行利益にも及ぶとされている(内山尚三「請負人の担保責任」契約法体系Ⅳ一六九頁)。
原判決は、本件工事に原判決添付別紙二のとおりの多くの瑕疵があることを認めながら、右瑕疵のうち地盤沈下を原因とするものと、原因不明のものについては、被上告人は担保責任を負うことはないとしている。
(二) そして原判決は、前者すなわち地盤沈下を原因とする工事の瑕疵について免責されるべき理由として、地盤沈下は事前に予測されていたが、これを避けるには加重を加えて一年ぐらい経過するのを待つか、建物の基礎を擁壁の下端まで深く下げればよい。だが、このように建物の基礎を深く下げなければ、たとえ盛土工事での突き固めを十分しても地盤沈下は避けられない。そこで被上告人は上告人に建物の基礎を深くするように告げたが、上告人は設計図どおりの工事(建物の基礎を擁壁の下端まで下げないでする工事)を「指図した」からだ、としている。
しかし、地盤沈下は建物に損傷をもたらすことは明らかであり、しかも地盤沈下が予測されており、そしてそれを避けるには建物の基礎を深く下げるとの方法があったのであるから、建築工事の専門家として被上告人は当然右方法をとるべきものであった。地盤沈下が予測され、従って建物に損傷等が生じることが予測されているにもかかわらず、地盤沈下防止措置をとらずに工事をすることは建築業者としてはまさに無謀極まる行動というほかなく、請負契約上の義務を誠実に履行したとは到底言えないことは多言を要しないところであり、被上告人の責任は明らかとみなければならない。
原判決は、前記上告人の「指図」をもって民法六三六条本文の「注文者ノ与ヘタル指図」に該るとしたものと思われるが、地盤沈下が建物に及ぼす深刻な影響を考えると、右指図が不適当なものであることは専門家たる被上告人にとっては明らかなことである。従って右指図は民法六三六条但書にいう「不適当ナ指図」であり、被上告人はその不適当なものであることを知りつつその不適当であることを上告人に告知していたとはみられない。原判決は、被上告人は上告人に「不同沈下が避けられないことを告げている」と判示しているが、不同沈下が避けられないことを告げただけでは「指図が不適当なことを告げた」ことにはならない。指図が不適当であることを告げるとは、指図どおりの工事をすれば地盤沈下により建物に深刻な影響を及ぼし、建物に本件の如き瑕疵が生じるに至る旨を告げることにほかならない。だが、被上告人がその旨を告げた事実は認定されていない。仮にも上告人がその旨を告げられていれば、上告人においてそれでもなお自己の指図に固執したとは、常識に照らして到底考えられないところである。
従って、上告人による前記指図があったとしても、被上告人は民法六三六条但書により免責されないことは明らかである。
(三) 次に原因不明の瑕疵につき、請負人の担保責任が無過失責任であるのに、不可抗力とでも言うのならともかく、何ゆえ被上告人が免責されるのかについて原判決は何ら判示していない。これは請負人の担保責任が無過失責任であることを看過し、かつ理由不備であり、いずれもその違法は明らかである。
五 原判決には、民法六三四条二項にいう損害賠償の「損害」の解釈を誤った違法があり、それが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
1 上告人が原審において、抗弁3で工事期間中の休業損害として金四五七万七〇七六円を主張しこれを立証したにもかかわらず、原判決は右主張につき、「鑑定の結果によれば、前記認定の工事費用は、ホテル営業を継続することにして二部屋ずつ修復工事をすることを前提に算定された費用であり、工事中のホテル営業が常に全室満室であるとの特段の事情はうかがえないから、一審被告の休業損害の主張は理由がない。」として、前記休業損害の主張をすべて排斥している。
2 しかし、右判示にいう「修復工事中のホテル営業が常に全室満室であるとの特段の事情はうかがえないから」というのは、その意味するところ不可解というほかはないが、敢えて善解すれば、工事中でないときも常に二部屋ぐらいは空室であろうから工事のため二部屋が使用できなかったとしても、工事と因果関係にある損害とは言えないとするものであろうか。しかしホテルを建設する者は、決してはじめから常に空室が生じることを予定してその設計・計画をするのではない。はじめから空室という無駄、非効率を予定して計画する者はいない。満室となることを予定して計画するのである。従って常に満室であることは決して「特段の事情」ではない。まして本件ホテルは、甲二の設計図面12からも明らかなようにいわゆるファッションホテルであり、一室の使用は一日あたり一回ではなく数回に及ぶものであるから、なおさらである。原判決自身も「本件のように使用頻度の高いホテル」の浴室では、としてこのことを認めている(原判決一九丁表)。それに何よりも、二部屋ずつではあっても工事をするからこそ満室にならないのである。二部屋ずつの工事だからといって利用客が来ないという被害を受けるのはその二部屋だけにとどまらない。ホテルは特に静けさを重んずる施設であるから、工事の騒音、振動等は他の部屋にも甚大な影響を及ぼし、そのため利用客の減少は避けられないことは自明の理である。
3 このことから明らかなとおり、上告人主張の休業損害の請求には、原判決のいう前記「特段の事情」の存在は不要であるところ、これが窺われないとして損害を否定した原判決は、民法六三四条にいう「損害」の解釈、適用を誤ったものである
第二 以上のとおりであるから、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背、加えて審理不尽、理由不備の各違法があり、原判決は破棄されるべきものである。
別紙仮執行宣言に基づく給付金返還命令の申立
第一 申立ての趣旨
被上告人は、上告人に対し、金三二〇〇万二九五八円及びこれに対する一九九四年三月五日から支払い済みまで年六分の割合による金員を支払え。
との裁判を求める。
第二 申立ての原因
一 原判決には仮執行宣言が付されているところ、被上告人は、同仮執行宣言にもとづき上告人に対し強制執行を申し立て、左記の債権差押命令が発せられた(債権者被上告人、債務者上告人、第三債務者左記①②は株式会社愛媛銀行、③は国)。
①広島地方裁判所尾道支部平成五年(ル)第二三七号債権差押命令(乙一一)
②広島地方裁判所尾道支部平成五年(ル)第二五四号債権差押命令(乙一二)
③広島地方裁判所尾道支部平成六年(ル)第二五号債権差押命令(乙一三)
二 被上告人は右③の命令にもとづき、一九九四年(平成六年)三月三日金一〇三四万五〇〇〇円を取り立てた(乙一四の一、二)。
この差押債権は上告人が本訴第一審判決主文第四項但書にもとづき仮執行を免れるための担保として供託していた供託金及びその利息金返還請求権である。
三 上告人は原判決の前記仮執行宣言に基づき被上告人に対し、一九九四年三月三日金二〇〇〇万円を、同年三月四日金一六五万七九五八円を、それぞれ支払った(乙一五、乙一六)。
なお前記②事件は一九九四年一月二七日取り下げられ、①事件は右金二〇〇〇万円の支払いと同時に取り下げられた(乙一七、乙一八)。
四 右のとおり、上告人は原判決の仮執行宣言に基づき、合計金三二〇〇万二九五八円を被上告人に支払った。
五 よって上告人は、原判決が変更されるときは、民事訴訟法第一九八条二項により原状回復として原判決の仮執行宣言に基づき上告人が被上告人に支払った右金三二〇〇万二九五八円及びこれに対する前記各支払い日のうち最も遅い一九九四年三月四日の翌日から支払い済みまで商法所定年六分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
(付属書類省略)